ブレゲの歴史 Part 1
ブレゲの歴史は4世紀にもわたります。その歴史はとても豊富な発明と革新を遂げたため、時計作りの歴史において不可欠な役割を果たしています。
数多くのブレゲの歴史に関する出来事から、私たちは2つの記事においてその起源から現在までの道をたどることができるでしょう。
ブランドの名前、ブレゲは創始者であるアブラハム・ルイ・ブレゲから来ています。彼は1747年1月10日にスイスのヌーシャテルで生まれました。

若かりし頃のブレゲ

18世紀のヌーシャテル
国を去ることは禁じられていたにも関わらず、40万人ものプロテスタント−ブレゲも含めて−が命の危険を感じてフランスから逃げました。
彼が11歳の時、彼の父、ジョナ・ルイが亡くなりました。それから間もなく、彼の母スザンヌ・マルゲリットは彼女の夫の従兄弟であり時計屋を営むジョセフ・タテットと再婚しました。
1762年、新しい父、タテットはブレゲをパリに連れて行きました。 ーその間、パリは少しだけプロテスタント迫害は穏やかでしたーパリのヴェルサイユにある時計職人(名前は残されておりません)の元で見習いをさせてもらったのです。

彼の仕事にとって、数学が不可欠だということがわかったので、ブレゲは夜間の数学の授業をマザリン大学のアヴェ・マリのもとでさらに勉強することになりました。
ブレゲは母や義理の父、そして彼の良き指導者マリを短期間に失うというハードな状況にありながらも、妹の面倒を見ることができました。そして、ようやく、1775年、自分の力だけで"No. 39, ケ・ドゥ・ロルロージュ"という作品をシテ島、セーヌ川の中州のノートルダム寺院の近くで完成させました。彼はその時28歳でした。


その同じ年、彼はセシル・マリ−ルイーズ・ルイリエと結婚しました。彼女はパリジャン・ブルジョワ・ファミリー創設者の娘でした。おそらく、新婦の持参金の一部が時計を作る資金になったのでしょう。
アヴェ・マリの導きによって、ブレゲはすぐに上流階級の人々から初めての注文を受けることができました。1780年の"デュック・オルレアン"や1782年の"マリー・アントワネット"といった自動巻きの時計を含めて。
彼の自動巻または“永久的”と言える時計は、ヴェルサイユでもそしてヨーロッパ中でも相当な評判となりました。自動巻きの時計を作ったのはブレゲが初めてではありませんでしたが、ほとんどの専門家は、初めて本当に信用できる、そして効果的な時計を作ったのはブレゲなのだと共通の見解を示しました。

上、下の時計はブレゲの”永久的”時計の例。振り子の重み、バネによってそれぞれの動きの後に戻ってきて、二つのバレルを押し上げ、バネが十分に押し上げられた時に止まる仕組みになっている。

ブレゲの時計は時計内部のメカニズムの質だけではなくそのデザインにおいても急速な成功を成し遂げました。彼が1783年にデザインした時計の針のみに注目してみましょう。それは金またはブルースチールで作られており、穴の空いた丸い風変わりな模様があしらわれており、それによって魅力的な上品さが時計にプラスされています。そのブレゲの時計の針は即座に成功を遂げました。それは「ブレゲハンズ」という用語が時計作りの語彙にまもなく含まれたという事実が物語っています。

彼は文字盤に白のエナメルプレートを使用しました。そのプレートにはわずかに右に傾いた典型的なアラビア数字、もしくはギローシェ模様、すなわち、手動の旋盤を使用した文字盤の上に刻み込まれた受容パターンが施されていました。このギローシェ模様は装飾としてだけではなく、金属の文字盤の反射光を抑える働きをしました。

1783年にブレゲは一つの注文を受けました。それは、マリー・アントワネットの守衛の一人からの注文で、彼の時計の最も熱烈なファンの一人であるマリー・アントワネット王妃へのプレゼント用の時計でした。王妃への時計は当時知られていた全ての機能を兼ね備えていなければなりませんでした。その注文には、納品期限とコストの上限が設けられていませんでした。1827年にその時計は完成しました。注文を受けてから44年後、マリー・アントワネット死後34年後のことでした。しかし、結果としては多くの時計の専門家が今までに作られた時計の中で技術的、美的、歴史的理由から一番重要な時計と考えたのです。特別な時計、ブレゲ No.160「マリー・アントワネット」の詳細についてはこちらを参照してください。

近年における他の注目すべき発明としては「ゴン・スプリング」(1783)で、この時計はベルの代わりに鐘をうつというものでした。次いで「パラシュート」(1790)という時計、またの名を「エラスティック・サスペンション」という時計(ブレゲは時々そう呼んでいました)は、衝撃から守る構造ができており、それは時計を壊れにくく、抵抗力のあるものにしました。

ミニッツリピーター時計の“ゴン・スプリング”、右は衝撃から守る構造を取り入れた”パラシュート”
ブレゲはイグザビエ・ギドとパートナーを組む1787年まで一人で働いていました。イグザビエ・ギドは置き時計と腕時計の販売者であり、彼と組むことによってブレゲは商売の中にさらに入りこむことに成功しました。
1791年には成功しなかったものの、ブレゲの歴史においてこのパートナーシップはとても重要なものとなりました。なぜなら、そのパートナーシップのおかげでブレゲという会社は販売記録と工場コストのアーカイブ記録をのこして、貴重な情報を提供していたからです。

一つの例として、自動巻き時計に関して、記録から1787年から1823年にかけてブレゲは60個の「パラシュート」を売ったということがわかります。そして1780年から1787年の間の何年もの間の記録がないのでその期間は20から30個の時計が生産されたと推測することができます。
しかし、その時期はフランス革命の嵐が急速に迫っていた頃でとても危険な時期でした。特に貴族や王室と近しい人にとっては。
幸運にも、ブレゲはジャン・ポール・マラという革命家のリーダーと近しい友達になりました。彼の姉、アルベルチンは時計職人のために時計の針を作りました。ブレゲは共通の知人の家の外に集まった怒った群衆からマラを救ったと、言い伝えられています。
ブレゲがギロチン台での処刑対象になっていることをマラが知った時、彼はブレゲがパリを離れジュネーブに安全に行けるように手配しました。それから彼はル・ロックルという場所へ移動し、そこで彼は少数の者を雇って小さな作業場を作りました。
1795年、フランスの政治が安定しブレゲはパリへ戻りました。しかし彼の仕事場は破壊されていました。彼の友人達、とりわけショワスループラザン家の人々はブレゲが再びケ・ド・ロルロージュに会社を再建するのを手伝いました。
陸軍と艦隊は早急に信頼できる時計を必要としていたため、ブレゲの復帰は歓迎されました。ブレゲはテロの間の失われた時間を補償され、工場再建を急ぐよう、軍隊に入ることを免除されました。
ブレゲの数年間にわたる亡命において彼の活動に与える打撃は深刻なものでしたが、それにも関わらず、彼はたくさんの例外的な発想と発明を発展させるために彼の時間を費やしました。それらはすぐに、その後数年において素晴らしい成功を遂げたと記録に残っています。
彼の優秀なところは技術的な面やスタイルだけではありませんでした。彼は優秀な商売人でもありました。一つの例として、1797年、ブレゲは最も有名な懐中時計の一つ、「スースクリプション」を作りました。1797年に公表されたこの時計は、大きい中央のバレルに非常にシンプルな特別製のムーブメントが備えられており、注文時に4分の1の価格を前払いする方式で販売されました(従って、「スースクリプション(予約販売)」という名前になりました)。「スースクリプション」は素晴らしい成功を遂げ、違う文字盤や金や銀のケースといった様々なモデルが作られました。

スースクリプション N.542、直径62mm、シルバーケース、金のフィレット、エナメルダイヤルを使用したブレゲの時計

スースクリプション N.1391、直径57mm、金のケース、金のエンジン回転ダイアルを使用したブレゲの時計
1790年後半、ブレゲは「モントル・ア・タクト」、英語名「タクトフル・ウォッチ」を発明しました。
時計の着用者は、時計のケースを開けて文字盤を見、時間を告げるという伝統的な方法だけでなく、暗闇の中で手あるいはケースの外側の矢を時計回りに止まったと感じるところまで回転させることによって時間をチェックできるようになりました。ケースの周りについている時間の印として使われているノブのおかげで矢がどの方向を向いているかを感じることができるようになり、正しい時間がほぼわかるようになりました。

1800年に3000フランでバストレシュ氏に販売されたブレゲのNo.608、シリンダーウォッチ’メダリオン・モントル・ア・タクト ’。ピンクゴールド、エナメル、そしてダイアモンドを使用したハンターケース。
「ア・タクト」の構造は上流社会の中でポケットから時計を出さなくても、そしてうんざりしたりイライラしなくても時間がわかることを可能にしました。そして事実、フランス語の「タクト」という別の意味には、「他のことへの細やかな感覚」、という意味があります。(従って英語の「タクト」、「タクトフル」もその意味なのです。)
1801年6月26日、フランス大統領はブレゲにレギュレーターとなる時計発明のために10年間の特許権を与えました。

ブレゲがフランス大統領宛に書いた彼の発明を表した手紙はとても興味深いです。
市民の大臣様
私はあなたに新しい発明の詳細メモをご紹介できることを光栄に思っております。それは時を測るための道具で、私はレギュレーター・ア・トゥービリオンと名付けました。私はこれら時計の構造における10年間の特許権を要求します。
私がこの発明を成し遂げたのは、重力の中心における位置的違いから生まれる誤差を取り除く発明、そして摩擦をレギュレーターのピボットと回転する穴の枢軸の全てのパーツに均等に分配するというレギュレーターの動きがあったからです。その方法は、油が厚くなっても接触箇所の円滑さはいつも変わらないようにすること、また、動きの精度に大きくまたは小さく影響を及ぼす他の多くの誤差を排除することによって、実現しました。これは現在ある我々のアートの知識をはるかに超えています。無限の試行錯誤があっても、です。
私が特許権申請を決意したのは、制作方法を完璧なものにする技術、また成功を収めるために被ったかなりの費用を含めた全てのアドバンテージを熟考後のことです。我が発明の時期を確定するため、また被った費用を私自身で補うために特許権を要求することを決意しました。
敬具
ブレゲ
物理法則の深い理解のおかげで、ブレゲは時計の位置の変化による影響の受け方に気づきました。ポケットウォッチはほとんどの場合ベストのポケットに収められていることから、時計が垂直方向に保たれている場合において、変化は顕著に現れました。彼はこの特性の主要な理由は重大なことだと理解していました。重力を排除することはできませんでしたが、1分に1回自軸回りに完全に回転する可動性のキャリッジの中に、規制する装置(バネのバランスを)と脱進機を設置することによって補うことができるのではないかと考えました。

彼の発明は、ポケットクロノメーターの精度を上げただけではなく、ブレゲの時計の中でも最も評価され、魅力的な時計の一つを作り出しました。ここにトゥービリオンの歴史についてもっと詳しく書きました。

ブレゲNo. 2567 トゥービリオン・ポケット・ウォッチ
ブレゲ独特のエンジン回転シルバーダイヤルを備え、ローマ数字ブルースティールのブレゲハンドー1812年
1807年、ブレゲは彼の息子、アントニー・ルイ(1776年生まれ)を完全なパートナーとして迎え入れ、その時点から、「ブレゲ・エ・フィス」という会社として知られることになりました。仕事の商業面はというと、彼の妻が1780年になくなったため、義理の妹であるスザンヌ・リリエが担当しました。
アントニー・ルイは初期の幼少時代から時計作りに没頭していたため、すぐに素晴らしい技術を身につけました。彼はパリで彼の父から訓練を受け、そしてロンドンでは素晴らしいイギリスのクロノメーターメーカーでもあり友人でもあるジョン・アーノルドから指導を受けました。
ここ数年は、ブレゲは海外で急成長を遂げました。特にロシアでの成功は顕著で、彼は1808年にサンクト・ペテルブルクに支店を開店しました。残念なことに、アレクサンドル1世がナポレオンの政策に対する措置としてフランス世の物をロシアに入れることを禁じたため、開店3年後にそのお店を閉めざるを得ませんでした。

サンクト・ペテルブルク支店を担当していたラザール・モローに宛てたブレゲの手紙
ナポレオン自身はブレゲにとって良い後援者で数々の携帯用時計やブレゲの置き時計の中でも”パンデュール・サンパティック”をたくさん購入しました。ナポレオンはブレゲの工房をお忍びで訪れることがありました。
ナポレオンの妹でありナポリの王ヨアキム・ムラットの妻であるキャロリン・ボナパルトは、1808年から1814年にかけて34個の置き時計や携帯用時計を購入したブレゲにとって最高の顧客の一人でした。

キャロリン・ムラット ナポリの女王
1810年、ナポリの女王からの依頼に応じてブレゲはこれまで知られている中で一番最初の腕時計を思いつき、作り出しました。それはNo.2639という時計で、非常に薄い、楕円形の複雑な仕組みのリピーターウォッチで、髪の毛のバンドや金色の糸に取り付けられていました。
その外見のスケッチは記録には残っていません。しかし、幸運なことに、アフターセールサービスの修理登録に残されていました。1849年3月8日、アンジュー通り63番地に住むラスポーニ伯爵夫人からのお申込みでNo.2639を修理のため送っていました。その伯爵夫人は他の誰でもなくルイーズ・ムラットで、ヨアキムとキャロリーヌの4番目、最後の子供でした。彼女はギュリオ・ラスポーニ伯爵と1825年に結婚していました。

1816年、フランス科学アカデミーのメンバーになったアブラハム・ルイス・ブレゲの肖像画
1823年9月17日、ブレゲが77歳の時、急に亡くなりました。創始者ブレゲのたった一人の息子、アントニー・ルイ・ブレゲは会社を引き継ぎ、彼の父が築いた道に続きました。そしてそのトップクオリティーを維持し、ブレゲブランドは世界中で有名になりました。
ブレゲの歴史 Part 2
1823年にアブラハム・ルイ・ブレゲが亡くなってから、彼の一人息子アントワーヌ・ルイ・ブレゲ(1776-1858)-彼自身も時計職人としての高い才能を持っていた-は、会社の成長、拡大を成し遂げました。
ブレゲというブランドはトップクオリティを維持し続け、また革新し続けました。この時代の発明の中で、初めてのキーレスねじ巻き時計、サンパティック時計を挙げることができます。
No.4952という時計は1830年にシャルル・ド・レスパン伯爵のために作られました。この時計は2つの目的のためにへりにギザギザのあるボタンが付いていました。手を動かないように置くこと、それから時計を巻き戻すためです。そのおかげで、現代のねじまき時計が誕生しました。
しかしながら、アントワーヌ・ルイはこの仕組みを特許に申請できず、10年後に有名なジュネーバン時計会社が似たような発明を特許に申請することに成功しました。

ブレゲNo. 4288, ねじまきのついた ハーフ・クォ−ター・リピーティング・ウォッチ 、1830年
1834年に”サンパティック”という時計が作られました。この時計は1793年にアブラハム・ルイ・ブレゲによって発達された原理に基づいたものでした。その独創的な特許をとったメカニズムは懐中時計を置き時計のてっぺんにあるくぼみに置くと自動的にセットされるというものでした。

ブレゲの ”サンパティック" 。金メッキフレームで正確な脱進機を収容しており、日、月、曜日、月相、時差、摂氏温度計が表示された。
ブレゲの時計を所有することは富と成功を意味しました。認められたステータスのシンボルであるブレゲの名前は、幾つかの時計が何度も世界の文献の中にでてきました。下に示すのはほんのわずかの例です。
“ブレゲは20年たってもくるわない時計を実現します、一方では少なくとも週に一度故障する哀れな機械があるというのに”1817年ステンダール(1783-1842)『ローマ、ナポリ、そしてフィレンツェ』
“大通りのダンディー(…)彼のブレゲの時間までの暇な時間の散歩、,用心深く、彼を思い出す、それは真昼のことでした。”
アレクサンダー・プシュキン(1799-1837)1825-1833年、『エフゲニー・オエーギン』
"彼はブレゲが今まで作った時計の中で最もおいしく薄い時計を描いた。気まぐれで自由な空想、11時、私は伯爵だった。”
オノレ・ド・バルザック(1799-1850)1833年『ウジェニー・グランデ』
“ベストのポケットからは立派なゴールドチェーンが掛かっていて、平たい時計が見えるだけだった。ブレゲが発明したばかりの”ラッチェ”をもてあそんでいた。”
オノレ・ド・バルザック(1799-1850)1842年『ラ・ラブイユーズ』
"ダングラーの時計、ブレゲによって作られたその時計は前日に念入りに巻き戻され、朝5時半を告げるチャイムが鳴った。
アレクサンドル・デュマ(1802-1870)1844年『モンテ・クリスト伯』
“時には心が悪ふざけして私たちを失望させることがあります。警戒することは正しいこと。神(素晴らしいブレゲ)が私たちに信仰を与え、それが良かったので、注意深い目でそれを改善しました。
ヴィクトール・ユーゴー(1802-1885)1865年『街と森の歌』
イギリスとアイルランドの女王、ヴィクトリアは王位についた翌年、1838年7月にブレゲの時計を購入しました。その時計は「とても小さくシンプルな時計、鐘を鳴らすためのリピーターのない、とても薄い時計」として、No.5102に登録されました。
イタリアの有名な作曲家、ジョアキーノ・ロッシーニ-当時最も有名な人物の一人-はブレゲの時計No.4604を所有していた。その時計はシンプルで、控えめなサイズ、デザインで日付が表示されるものでした。その時計はエンジン回転式の金のケースで中心の偏った銀のダイアル、脱進機レバーが特徴的な時計でした。彼の死後、1868年、彼の未亡人はその時計を持ち続けました。これらの時計の写真がありませんが、幸運なことに、ブレゲアーカイブから詳細を知ることができます。

ブレゲNo.4961 格外に平坦なハーフクウォーターリピーターのついた懐中時計。永久的なカレンダー、月相、時差、そしてパワーの指針が備えられていた。1831年にロード・ヘンリー・シームール・コンウェイに売られた。ブレゲがそれまでに作った時計の中で最も複雑な時計の一つ。とてもスリムなケースにおさめられている(わずか7.7mmの厚み)。この歴史的価値のある時計は2013年にあるオークションで100万スイスフランという価格で購入されました。
1833年、彼が57歳の時、アントワーヌ・ルイはパリ近郊のル・ブイソンにある彼の工房を退職することを決意しました。彼の息子ルイ・クレモンに仕事を引き継ぎ、このことは科学的スタディにおける彼自身をはっきりと区別しました。
ルイ・クレモン・フランソワ・ブレゲ(1804-1883)は彼の有名な祖父、アブラハム・ルイが亡くなった時、19歳でした。ペルレというベルサイユにおける時計作りのスキルを弟子として見習った後、彼は時計職人として働くためにスイスへ行き、スイス製のメソッドの経験を得ました。ブレゲは彼と共に標準化され個別化された商品の並行生産を開始しました。
ルイ・クレモンは彼の親戚の一人とパートナーシップを結び、会社を「ブレゲ、ヌボー・エ・シー」という名前に変更しました。

蓋のない複雑なクウォーターリピーティングウォッチ。「ブレゲ・ヌボー・エ・シー」と書かれた月相つき。ユーロコインよりわずかに大きいサイズのこの37mm時計はロシアのプリンセス、カトリーナ・バゲレーションへ1829年に販売されたもの。彼女の夫、カドラック大佐の贈り物になるのだろうと噂されました。彼女の結婚生活はすぐに終わりを迎え、この時計は1830年にブレゲへ再び戻されました。1835年、この時計はナタニエル・ド・ロートシルトに再販売されました。彼は有名なビジネスマンで、銀行家でありシャトー・ムートン・ロートシルトによって設立されたワインメーカーの経営者でもありました。
ルイ・クレモンは製造プロセスを最適化しました−この時期、1年間に350個程の時計を生産していました。−しかし科学機器、電気機器、そして電信機器へと多様化しました。
特に、1842年に彼は当時使われていた光電信システムに代わる電針を開発しました。電針開発における彼の働きが認められ、1845年にルイ・クレモン・ブレゲは名誉の殿堂を受賞しました。彼は世界のすべての展覧会で最高の賞を受賞し、ビューロー・デ・ロンギテュード(1852)のメンバーに任命され、1874年、アカデミー・デ・シオンスに選ばれました。

ルイ・クレモン・フランソワ・ブレゲ
彼はエッフェルタワーのベースに書かれた72名のフランス人科学者、エンジニア、そして数学者のうちの一人です。
物理学への偉大な熱意と彼の息子アントワーヌ(1851-1882)が同じ興味を持っていたことから、ルイ・クレモンは電信、鉄道信号、そして生理学のための電気装置を作るビジネスへ身を投じました。これらのことにより、彼はエレクトロニクス分野での卓越した成功をおさめました。
結果として、1870年5月8日、時計部門はエドワード・ブラウンという英国人の工場マネージャーに売却され、その間に会社のパートナーになりました。
偉大なるアブラハム・ルイのひ孫、アントワーヌはビジネスに関わった最後のブレゲの家族です。事実、彼は2人の息子と1 人の娘がおりましたがビジネスには関わりませんでした。彼は31歳の時になくなりました。
電器装置事業が”ブレゲ・ファブリコン”を意味する”ブレゲ・エフ・ティー”という名前を使用していたので、時計事業はシンプルに”ブレゲ”となりました。
1881年までに、時計事業はメゾン・ブレゲという名前で再編成されました。高いクウォリティを保つため、国際的に上流社会の人々をターゲットにエドワードはリーダーシップをとりました。
エドワード・ブラウンは1895年、66歳のとき亡くなりました。そのため会社は彼の息子であるエドワードとヘンリーに引き継がれました。1900年代早々、エドワードのリタイアによりヘンリーが社長になりました。
この時期、デイビッド・リオネル・ゴールドスミッド・スターン・サロモン(1851-1925)-多才な科学者、弁護士、英国の男爵でありロンドンの最初のユダヤ人牧師の甥-は自ら、自分はブレゲの時計コレクターのうちの一人であることを明らかにしました。
彼の著書”ブレゲ(1747-1823)"は今日でさえブレゲの仕事とそのたくさんの時計に最も評価している本のうちの一つです。

1925年、彼が死に、サロモンは57個のブレゲの時計を彼の娘、ヴェラ・ブリス(1888-1969)に遺しました。有名なNo.160” マリー・アントワネット”もそこに含まれていました。そのほかの時計は彼の妻に引き継がれました。

ブレゲNo. 160 “マリー・アントワネット”
第一次世界大戦後、ヴェラはエルサレムに引っ越し博愛主義者になりました。彼女の師、エルサレム大学の学長であるレオ・アリー・マイヤーが亡くなったのち、彼女はL.A.マイヤー・インスティテュートをイスラム芸術のためにつくりました。そして、ギャラリーで展示するために彼女の大切な時計を博物館に寄付しました。
“マリー・アントワネット”も含む106個以上にものぼる大切な時計が1983年に盗まれ、20年以上後に再び寄付されました。この魅惑的なストーリーについては、次の記事に詳しく書かれています。
1927年、ヘンリーの息子であるジョージ・ブラウンは彼の父から受け継いだスキルを会社経営において発揮し成功を遂げました。
彼は作る時計の範囲を広げました。伝説的な時計”タイプ 20”(または”タイプXX”)というクロノグラフ腕時計といった航空学的な時計にまで手を伸ばしました。それは技術仕様を満たすために開発された時計でした。というのは、フランス戦争省が1950年に支給したパイロットウォッチは後に空軍と海軍航空隊の標準設備の一部となったのです。
精度(1日+/- 8秒)と信頼性と共に、この「タイプ20」はブラックダイヤル、フライバッククロノグラフ機能、そして最低35時間のパワーリザーブが機能として備えられていました。
しかしながらブレゲはこのようなものを提供するだけではなく、このスタイルの時計のリーディングカンパニーでもありました。
タイプ20の興味深い歴史についてはこちらの記事をみてください。

フランス戦争省のためのブレゲ「タイプ20」
二つのレジスタと小さい矢印しかついていない回転ベゼルがついている。およそ 1955年 。
そして世界の航空産業とブレゲとのつながりは特別なものだったと確かに言うことができます。事実、偉大で伝説的なアブラハム・ルイの孫、ルイ・シャルル・ブレゲ(1880-1955)は航空産業初期のパイオニアの一人でした。1919年、エール・フランスに関係したカンパニー・デ・メサージュ・アエリアンを設立しました。
数十年後、1970年にジョージ・ブラウンは1780年にヴァンドーム広場にできたショーメというパリのジュエリーブランドに売却しました。そしてそれはジャックとピエール・ショーメの時代まで続きました。
ブラウンファミリーは100年(1870-1970)にわたってブレゲを経営してきました。それはブレゲファミリー(1775-1870)よりも長い期間でした。
1975年、イギリスの時計メーカー、ジョージ・ダニエルは“ザ・アート・オブ・ブレゲを出版しました。この本には、現代の時計学の父と彼の業績について最終的な歴史が書かれています。1960年代、自身のブランドを作る前、ダニエルはブレゲの有名な専門家だと思われていました。彼の友達ジョージ・ブラウンは”パリのブレゲ会社”という名を贈りました。

ブランドの話に戻りましょう。ショーメのもと、1976年にブレゲの仕事場はスイスのヴァレ・ド・ジュに移されました。その場所はスイスの時計が生まれた場所であり、また高い技術を持った時計職人をリクルートするにはパリよりもずっと簡単な場所でした。技術部門は時計ファンとしてよく知られているダニエル・ロス氏を時計メーカーの師匠として迎え入れました。
この期間は機械的時計の生産者にとっては難しい時期でした。いわゆる石英危機直面していたこと、そしてショーメは世界的に物価が落ちた後、ダイアモンド探索と再販事業において大きな損失を抱えてしまったからです。結果として、1987年、ショーメはバーレーンを拠点とする投資銀行、インベストコープ.L.Aに買収されました。
1988年のトゥービロン腕時計や1991年の「パーペチュアル・カレンダー・イクエーション・オブ・タイム」を含む有名な時計たちがこの数年間に誕生しました。

パーペチュアル・カレンダー・アンド・イクエーション・オブ・タイム 1991年
インベストコープは会社の再編成を続けました。そして、1991年、インベストコープはスイスの会社で時計産業において生産とマイクロ・メカニカル部品の供給をしているヴァルダー・エス・エーという会社を買収しました。その会社を組み入れて、グループ・オルロジェ・ブレゲ (GHB)を新しく設立しました。
1992年、ムーブメントメーカーのヌーベル・ルマニア・エス・エーも買収しました。この会社はオメガのスピードマスターを含む多くのブランドにおける素晴らしいクロノグラフムーブメントで知られる会社でした。ヌーベル・ルマニアが他社の時計トップブランドのために作っていた最高仕様の時計と同じようにブレゲの時計を作りました。

ヴァレ・ド・ジュのロリエントにあるヌーベル・ルマニア工場
今日、ここはブレゲのメイン工場となっている。(記事の一番下の写真参照)
1998年、グループ・オルロジェ・ブレゲ (GHB) は2億8000万スイスフランの収益と東南アジア市場への拡大と共に再び利益をもたらしました。インベストコープのオーナーシップの間、売上は10倍ほどになりました。
1999年9月14日、スウォッチグループはループ・オルロジェ・ブレゲをインベストコープ S.Aから買収し自身の15のブランドにブレゲを加えると発表しました。-ブランクパン、オメガ、ロンジンの時と同じように-
スウォッチの産業的商業的強さから、ブランドのファンと最も要求の厳しい愛好者の期待に応えるために例外的モデルを開発するに必要なすべての物質的技術的資源をもっていました。 このブランドは、はじめからその希望していた通りの製造施設を備えていました。希少な新しい世代への芸術と技能のトレーノングを終えたトップレベルの時計職人を雇うことに力を入れました。 スウォッチグループのニコラス・ジー・ハイェック社長は自身のブランドを王の宝石と考えました。1921年にデイビッド・リオネル・サロモンが”メカニズムを理解する者にとっては、ブレゲの時計はまさに絵なのである”と表現した言葉に大いに賛成して。 ブレゲ 博物館を作ったのは自然なことでした。2000年9月13日に発足し、メゾンの歴史に関係した貴重な資料やアイテムを展示しました。博物館は現在パリのヴァンドーム広場にあるブレゲブティックの1階にあり、アブラハム・ルイの直系7世代目にあたるエマニュエル・ブレゲが率いています。


ブレゲのアーカイブは2世紀をカバーし、生産登録、修理本、信憑性証明、顧客からの手紙、アブラハム・ルイ・ブレゲによって書かれた技術的注釈、そしてもちろん毎年会社が生み出し続けている珍しい時計が展示されています。
優れたマーケターであるハイェックは、トゥールビヨンの特許日から200年経ったことを記念して、特別なお祝いを用意しました。その盛大なパーティーは2001年にヴェルサイユで開かれました。ブレゲの激しいマーケティング活動の結果、ブレゲトゥールビヨンの販売は1999年の150からわずか5年間で1,000以上に増加しました。

トゥールビヨン特許の200周年を記念して2001年に発行されたグランド・コンプリケーション・トゥービロン1801-2001
この時計マーケットの新しい動きに注目すると、他の高級時計メーカーは時計産業全体に明らかな利益をもたらすトゥールビヨンウォッチを彼らのコレクションに加え、ブレゲの道を追いました。

2008年ブレゲのNo.160、 "マリー・アントワネット"のレプリカ、No.1160を誇らしげに見せるニコラス・ハイェック。腕にはブレゲの時計を二つ、オメガの時計を一つつけている。
ブランドは最終的には創始者であるアブラハム・ルイの革新的な力動説を永久に存続するために理想的な状況になりました。それはニコラス・ジー・ハイェックと、後に彼の孫マークのリーダーシップのもと、登録された例外的な特許の数-2002年から120も!-に実証されています。 2006年、ブレゲは2006年に、ブレゲーは、シリコンに様々な重要な機械部品を導入し、時計技術における大きな飛躍を達成しました。 シリコンは、磁気吸引力と影響力に加え、耐腐食性と耐摩耗性にも優れています。鋼より軽くて硬く、慣性を減少させ、潤滑剤を必要とせず、さらに優秀なのは幾何学的自由、すなわち新しく複雑な形状を生み出すことができるのです。 エスケープホイールとレバー、場合によってはバランススプリングにシリコンを使用することで、オシレーターの周波数を上げることが可能になりました。一部の時計では時間当たり72,000振動に達しました。これによって、時計はさらに正確な時を刻むことが可能になりました。

シリコンのレバー、エスケープホイール、バランススプリング
反磁場成分の導入は、世界に新しい可能性を開きました。事実、2010年に、ブレゲは磁気ピボットの特許を申請し、磁気学における時計学のタブーを破りました。

バランス棒の両端に特に強力なマイクロマグネットを組み込んだ二つのカウンターピボットを組み合わせたこの技術的革新は、ダイナミックな安定装置がバランス棒を中心に、そして自動調節し続けることを可能にしました。 2012年、ブレゲは、この驚くべき発明の最初のショーケースを、クラス・ヘルツ・クロノメトリーの発表と共に示しました。この時計は10ヘルツのバランス周波数のおかげで格別のレート結果を出しました。

1年後、ブレゲは再度彼らの発明スキルを発表しました。それはトランスミッション・ホイール用の磁気ガバナーの発明という時計作りにおけるもう一つの世界初の発明でした。

革新的なストライクガバナー。磁石と古典的な摩擦ベースのストライクガバナーを超えた渦電流(フーコー電流)の原則における働きが備わっています。 シルバーディスクと磁石の相互関係は一定のローテーションを生み出します。回転する構成要素と内壁の接触を回避することでブレゲはノイズと磨耗を除去することに成功しました。
「クラシック・ラ・ミュージカル・ウォッチ」という時計は、とても優秀なメカニズムを備えたものでした。それは、より高い精度を保証する一方で、磨耗、ノイズそして多くのエナジーを必要とするという時計の特徴的な課題を解決したものでした。

ホワイトゴールドの「クラシック・ラ・ミュージカル」は ロッシーニの “ザ・シービング・マグピーT” かバッハの “ラ・バディナリー” のチャイムが鳴りました。
2015年、トラディション・クロノグラフ・インディペンデント7077でブレゲはスマートで革新的な技術を発表しました。その技術とは二つのそれぞれ独立した手巻きシステムで、一つは時間と分のため、そしてもう一つはクロノグラフのためのものでした。
二つの全く別の手巻きシステムを導入することで、ストップウォッチ機能が開始されたときにその動きが完全に影響されないという一つの利点がありました。
この時計は、クロノグラフギアシステムへの新しいエネルギー供給方法も生み出しました。事実、ブレゲは時計ユーザーが左の押しボタンを押してゼロにリセットするときのクロノグラフを動かすのに必要なエネルギーをためておくシステムの特許を取りました。

トラディション・クロノグラフ・インディペンデント 7077
2世紀以上に及ぶ発明と技術進歩は時計のパフォーマンス、正確さ、機能、そしてデザインの継続的改良のためのコンスタントな追求の中でブレゲの歴史に終止符をうちました。創始者アブラハム・ルイをとても尊敬する一つの姿勢と言えるでしょう。


上、下図とも、ロリオンにおけるブレゲの工場

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ショップについて
店長 妹尾満隆
おじいちゃんが骨董品が好きなことにより、子供の頃からアンティークの商品に携わっていました。
百貨店に行っては手巻きの時計を購入してきて、飾り棚の中にいろんな時計が飾られてました。
当時はあまり機械式の時計に興味がなかったのですが、大人になった時におじいちゃんがコレクションするくらい魅力があるものだと理解できるようになりました。
私は置き時計よりも、腕時計が好きでさらにクロノグラフが好きです。
私のショップは、そんな手巻きのクロノグラフが好きな方のためのショップになっています。